温泉のはじまりはいつ?千三百年前の本には「万の病がことごとく治る」とあった
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温泉。千三百年前の本にこう書いてあります。「一度入れば姿が美しくなり、二度入れば万の病がことごとく治る」。天平5年(733年)の『出雲国風土記』が記した玉造の湯です。人々はこれを神の湯と呼びました。温泉は薬だと信じられていた時代から、法律が温泉を決める時代までをたどります。

先に結論
- 天平5年(733年)に成った『出雲国風土記』は、玉造の湯を「一たび濯げば形容端正しく、再び沐すれば万病悉に除こる」と記し、人々は神の湯と呼んだと伝えます[1]
- 記録はさらにさかのぼります。『日本書紀』によれば舒明3年(631年)、天皇が有馬の湯に出かけ、9月19日から12月13日まで86日のあいだ滞在しました[2]
- 江戸時代には相撲の番付をまねた温泉の番付『諸国温泉効能鑑』が刷られます。東の大関は上州草津、西の大関は摂州有馬。温泉は療治と休養の場で、湯治の旅が広がりました[3][4]
- 万治4年(1661年)、農民の土地争いを裁いた幕府の文書の絵図に、湯気が三本立ちのぼる印が二つ描かれています。日本で使われた最古の温泉マークとされています。そして昭和23年(1948年)の温泉法が、温泉を25度以上か決められた成分を含むものと定めました[5][6]
動画版(1分5秒)。映像はAIによる再現イメージです。
① 千三百年前の効能書き|『出雲国風土記』の玉造の湯
天平5年(733年)、『出雲国風土記』が成ります。その中に玉造の湯のことが書かれています。「一たび濯げば形容端正しく、再び沐すれば万病悉に除こる」。一度入れば姿が美しくなり、二度入れば万の病がことごとく治る。だから人々は神の湯と呼んだ。島根大学総合博物館は風土記の記載をそう紹介しています。[1]
美肌と万病。温泉は薬だと信じられていました。
この記事では『出雲国風土記』の原本(写本)は確認していません。引用は研究機関の記載に拠っています。
② 天皇の湯治|『日本書紀』の有馬八十六日
記録はさらにさかのぼります。『日本書紀』によれば舒明3年(631年)9月19日、天皇が摂津の国の有間温湯宮に出かけ、12月13日まで86日のあいだ滞在しました。有馬温泉観光協会は有馬の歴史の始まりとしてこの記事を挙げています。[2]
三か月近い滞在です。病を治し、体を休めるために湯に入る。温泉は薬だと信じられていました。
「日本最古の温泉」がどこかは、この記事では書きません。有馬、道後、白浜がそれぞれ古い湯を名乗っていて、当事者同士が競合しているからです。『日本書紀』の原本も今回は確認しておらず、引用は観光協会の記載に拠っています。
③ 江戸の番付と湯治の旅|東の草津、西の有馬
江戸時代になると、相撲の番付をまねた温泉の番付が刷られます。『諸国温泉効能鑑』。江戸東京博物館が所蔵する19世紀の刷り物で、版元は和泉屋永吉です。[4]
東の大関は上州草津の湯、西の大関は摂州有馬の湯。江戸東京博物館図書室の回答によれば、江戸時代の大部分の温泉は療治と休養の場として湯治客を迎える宿でした。[3]
病を治すために湯に浸かる湯治の旅が広がりました。番付の刷り物の画像は博物館の収蔵品ページで確認し、文面の読み取りは国立国会図書館のレファレンス記録に拠っています。
④ 印と法律|温泉マークと温泉法
万治4年(1661年)、幕府が農民の土地争いを裁いた評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」。その添付図に、磯部温泉を記した温泉記号が二つ描かれています。湯気が三本立ちのぼる印です。安中市は、専門家が調査した結果、日本で使われた最古のものと判明したと説明しています。[5]
そして昭和23年(1948年)、温泉法が温泉を決めました。地中から湧出する温水、鉱水、水蒸気その他のガスで、温度が25度以上か、別表に定める物質のいずれかを含むもの。環境省が示す温泉の定義です。[6]
神の湯は法律の湯になりました。効能ではなく温度と成分で決まる。千三百年前の効能書きから、ここまで来ました。
「最古」と伝承をどう読むか
資料から確認できること
『出雲国風土記』が玉造の湯を「一たび濯げば形容端正しく、再び沐すれば万病悉に除こる」と記し神の湯と呼ばれたことは、島根大学総合博物館の記載で確認できます。『日本書紀』の舒明3年の有馬滞在は有馬温泉観光協会の記載に、温泉番付の大関が東は草津、西は有馬であることは国立国会図書館のレファレンス記録にあります。万治4年の温泉記号は安中市が、温泉法の定義は環境省が公式に説明しています。[1][2][3][5][6]
現時点では断定できないこと
『出雲国風土記』と『日本書紀』の原本(写本)は確認していません。「日本最古の温泉」がどこかは、有馬、道後、白浜がそれぞれ古い湯を名乗っているため書いていません。聖徳太子が道後温泉を訪れたという話は『伊予国風土記』の逸文に拠る伝承のため触れていません。温泉マークが「最古」であることは、安中市が専門家の調査として説明している内容で、幕府の評決文の原本は確認していません。[5]
温泉の年表
今夜の湯で万の病は治らない
千三百年前の本は、二度入れば万の病がことごとく治ると書きました。いまの温泉は法律によって温度と成分で決まります。それでも湯に浸かれば肩の力は抜けます。[1][6]
動画の冒頭と最後に出てくる夜の露天風呂は、AIによる再現イメージです。特定の温泉地を描いたものではありません。
むすび
舒明3年に天皇が86日浸かり、天平5年に効能書きが記され、江戸の番付が東西の大関を決め、万治4年の絵図に湯気の印が描かれ、昭和23年に法律が温泉を定めた。神の湯は法律の湯になりました。今夜の湯で万の病は治りません。それでも肩の力は抜けます。
出典・参考資料
- [1]島根大学総合博物館「島根まるごとミュージアム」玉造温泉研究・専門書 『出雲国風土記』の玉造の湯の記載「一たび濯げば形容端正しく、再び沐すれば万病悉に除こる」と、人々が神の湯と呼んだこと / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
- [2]有馬温泉観光協会「有馬の歴史」当事者資料 『日本書紀』に舒明3年9月19日から12月13日まで86日間、天皇が有間温湯宮に滞在したとあること / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
- [3]国立国会図書館 レファレンス協同データベース(江戸東京博物館図書室の回答)公的機関 『諸国温泉効能鑑』の大関は東が上州草津ノ湯、西が摂州有馬ノ湯であること。江戸時代の温泉の大部分が療治・休養の場として湯治客を迎える宿だったこと / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
- [4]江戸東京博物館デジタルアーカイブス『諸国温泉効能鑑』(和泉屋永吉・19世紀)一次史料 温泉番付の刷り物が博物館の収蔵品として存在すること。文面の読み取りは出典3に拠る 該当箇所:収蔵品ページ(detail-11925) / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
- [5]安中市「温泉記号発祥の地」公的機関 万治4年の評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の添付図に磯部温泉を記した温泉記号が2つあり、専門家の調査で日本で使われた最古と判明したこと / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
- [6]環境省「温泉の定義」公的機関 温泉法(昭和23年制定)の温泉の定義=地中から湧出する温水・鉱水・水蒸気その他のガスで、温度25度以上または別表の物質のいずれかを含むもの / 閲覧日 2026-10-19 資料を見る
公開:2026年10月20日
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