日本でステーキを食べるのは、いつから?禁令と「薬喰い」からたどる、千二百年の肉食の歴史
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「日本初のステーキはいつか」。今回確認した資料の範囲では、それを特定できる記録は見つかりませんでした。一方、肉を「薬」として食べる風習など、肉食の記録は残っています。675年の詔から明治まで、千二百年の変化を見ていきます。

先に結論
- 675年、天武天皇の詔で牛・馬・犬・猿・鶏の肉食が禁じられます。稲作期の期間限定で、農耕に使う動物の保護が狙いとする解釈が有力です。以後も禁令は繰り返され、肉は「表向き、食べないもの」になっていきました[4][1]
- 禁令があっても、肉食は続いていました。江戸には獣肉を出す「ももんじ屋」があり、猪を「山くじら」と呼び、健康のためと称する「薬喰い」として食べていました[2][4]
- 彦根藩は幕府公認で牛の屠畜を許された唯一の藩とされ、牛肉の味噌漬けを「反本丸(へんぽんがん)」という薬として製造し、将軍家に献上していました[7][3]
- 1872年、明治天皇の牛肉試食が報じられ、肉食再開が公になりました。東京では牛鍋屋が増え、牛肉が広まります。ただし、「日本初のステーキ」を食べた人物や店は、今回確認した資料の範囲では特定できません。「ビフテキ」という言葉は、1883年の用例に確認できます[4][5][9][10]
動画版(1分2秒)。映像はAIによる再現イメージです。
六七五年の詔は、何を禁じたのか
675年、天武天皇の詔により、牛・馬・犬・猿・鶏の5種の肉食が禁じられました。対象は5種だけ、期間も稲作期の限定で、鹿や猪は含まれていません。農耕に使う動物を守る意図が有力とされます。[4][1]
このため、「日本人は1200年間まったく肉を食べなかった」とは言えません。禁令はその後も形を変えて繰り返され、肉は「表向きは食べないもの」と扱われるようになりました。[1][4]
江戸の「薬喰い」
江戸時代には、健康のためと称して肉を食べる「薬喰い」がありました。獣肉を出す店は「ももんじ屋」と呼ばれ、猪の肉は「山くじら」の名で売られています。くじらなら魚として食べられる、肉も薬としてなら食べられる、という考え方でした。[2]
両国のももんじや(1718年創業とされる)は、いまも営業を続けています。[2]
大名の間でも、肉は薬として扱われていました。彦根藩は幕府公認で牛の屠畜を許された唯一の藩とされ、牛肉の味噌漬けを「反本丸」という薬として製造していました。1781年以降は「養生肉」の名で将軍家や大名家に献上されます。これが近江牛のルーツです。[7][3]
明治天皇の牛肉試食と、牛鍋の流行
1872年(明治5年)、明治天皇が初めて牛肉を試食しました。約1か月後に『新聞雑誌』が報じ、宮中の肉食再開が公になります。千二百年にわたる「表向きは食べない」という扱いも、事実上ここで終わりました。[4]
東京では牛鍋が大流行します。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』で「牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書き、明治10年頃には東京の牛鍋屋は500軒を超えたとされます。[5]
神戸には、1868年の開港後、農耕用だった但馬牛のおいしさに外国人が先に気づいたという逸話があります。当事者団体も「と言われています」と、伝説として紹介しています。こうした牛肉の食文化が、のちの神戸ビーフや、世界に知られる和牛につながっていきます。[6]
「日本初のステーキ」は分からない
日本で最初にステーキ(厚切りの牛肉を焼く料理)を食べた人物や、それを出した店は、今回確認した資料の範囲では特定できませんでした。言葉の記録はあり、「ビフテキ」は1883年(明治16年)の『開化新聞』に、「ビーフステッキ」は1887年(明治20年)の『東京日日新聞』に確認できます。牛鍋の流行から十年ほどで、新聞にもステーキを表す言葉が載るようになっていました。[9][10]
肉類の1人あたり年間消費量は、1965年度からの約60年で約3.8倍に増えました。禁令から明治までの千二百年と比べると、ステーキが身近になった時期は、ごく最近にあたります。[8]
「肉食禁止の歴史」はどこまで確かなのか
資料から確認できること
675年の詔(『日本書紀』)が5種限定・期間限定だったこと。江戸の薬喰い・ももんじ屋の文化。彦根藩の反本丸の献上。1872年の明治天皇の牛肉試食と報道。明治の牛鍋流行(『安愚楽鍋』・牛鍋屋500軒超とされる数)。言葉としての「ビフテキ」(1883年)・「ビーフステッキ」(1887年)の用例。[1][2][3][4][5][9][10]
現時点では断定できないこと
「日本初のステーキ」がいつ・どこで食べられたかは、今回確認した資料の範囲では特定できていません(存在しないと断定するものではありません)。「1200年間肉を食べなかった」も不正確です(禁令は限定的で、鹿・猪は対象外)。明治天皇の試食の正確な日付は二次資料では一致しますが一次資料を確認できておらず、年までに留めています。神戸の「最初に食べたイギリス人」も当事者団体の伝説です。
日本の牛肉の年表
千二百年を経て、いまに続く肉料理
両国のももんじやは、いまも営業しています。彦根の牛肉味噌漬けの系譜は近江牛として、但馬牛の系譜は神戸ビーフとして、世界のブランドになりました。[2][7][6]
「日本初のステーキ」は、今回確認した範囲では分かりませんでした。ただ、禁令の時代にも肉食は続いており、薬喰いや牛鍋、近江牛や神戸ビーフなど、時代ごとにさまざまな食べ方や産地の特色が生まれています。[2][7][6]
むすび
日本で最初のステーキがいつ食べられたかは、今回の資料では分かりませんでした。禁令から明治までの千二百年には、薬喰いや牛鍋など、肉を食べ続けてきた記録が残っています。
出典・参考資料
- [1]Wikipedia「日本の獣肉食の歴史」三次資料 調査の入口として参照。675年の詔の内容と限定性・繰り返された禁令の整理 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [2]Wikipedia「ももんじ屋」三次資料 山くじら・薬喰い・両国ももんじや(1718年創業とされる)の整理 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [3]Wikipedia「近江牛」三次資料 彦根藩と反本丸・養生肉の献上の整理 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [4]キリン歴史ミュージアム「牛鍋と肉食解禁」当事者資料 肉食禁止の歴史・1872年の明治天皇試食と『新聞雑誌』の報道・江戸の肉食事情 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [5]コトバンク「安愚楽鍋」ほか三次資料 「牛鍋食はねば開化不進奴」・明治10年頃の牛鍋屋500軒超とされる数 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [6]神戸肉流通推進協議会「神戸ビーフの伝説」当事者資料 開港後に但馬牛を最初に食べたのは一人のイギリス人「と言われています」の伝説 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [7]「近江牛」生産・流通推進協議会「近江牛の歴史」当事者資料 彦根藩の屠畜・反本丸・1781年以降の養生肉献上 / 閲覧日 2026-08-24 資料を見る
- [8]農林水産省 広報誌aff「数字で学ぶ日本の食料」(2023年2月号)公的機関 肉類の1人あたり年間消費量が1965年度から約3.8倍に増えたこと / 閲覧日 2026-09-03 資料を見る
- [9]精選版 日本国語大辞典「ビフテキ」(コトバンク掲載)二次資料 「ビフテキ」の初出の実例=『開化新聞』明治16年(1883)10月30日 該当箇所:[初出の実例] / 閲覧日 2026-09-04 資料を見る
- [10]精選版 日本国語大辞典「ビーフステーキ」(コトバンク掲載)二次資料 「ビーフステッキ」の初出の実例=『東京日日新聞』明治20年(1887)1月6日 該当箇所:[初出の実例] / 閲覧日 2026-09-04 資料を見る
公開:2026年9月4日
2026年9月4日:公開前の最終監査を受け、「ビフテキの確かな初出年も確認できていない」を訂正し、精選版日本国語大辞典の用例(ビフテキ1883年・ビーフステッキ1887年)を追記。「日本初のステーキ」は「今回確認した資料の範囲では特定できない」の表現に改め、「食い意地が和牛を作ったことは確か」の一文を出典の範囲に合わせて書き換えました。
2026年9月7日:導入・見出し・本文の表現を整理しました。出典と、伝承・未確認事項についての注記は残しています。
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