日本の花火のはじまりはいつ?
「たまや」の玉屋は、一代で消えた
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花火の掛け声「たーまやー」。その玉屋が、たった一晩で江戸から消えた話は、あまり知られていません。鍵屋と玉屋、二つの名跡の明暗を、公的資料と当事者の記録からたどります。
先に結論
- 花火師の名跡・鍵屋は万治2年(1659年)、大和国篠原村(現・奈良県五條市)出身の弥兵衛が江戸で創業しました。葦の管に火薬の小玉を入れた花火が飛ぶように売れたと伝わります[1][2]
- 江戸では慶安元年(1648年)に花火禁止令が出ますが、「大川筋(隅田川)の海手側は構わない」とされ、花火は隅田川の川開きの名物になっていきます[3]
- 文化年間、鍵屋の番頭がのれん分けを許され「玉屋市兵衛」を名乗ります。両国橋を挟んで上流が玉屋、下流が鍵屋。掛け声「たまや」「かぎや」の競演です[1][2][3]
- 天保14年(1843年)、将軍の日光出立の前夜、玉屋から失火。市兵衛は江戸所払い・財産没収となり、玉屋は一代で断絶しました。鍵屋は現在15代まで続いています[2][3][1]
1分の動画版。映像はAIによる再現イメージです。
鍵屋の創業と、禁止令の抜け道
万治2年(1659年)、大和国篠原村出身の弥兵衛が江戸で花火の商いを始めます。屋号の「鍵屋」は、稲荷の狐がくわえる鍵にちなむと伝わります。[1][2]
江戸は火事の町です。慶安元年(1648年)には早くも花火禁止令が出ますが、条文には抜け道がありました——「大川筋海手之分は不苦候(隅田川の海手側は構わない)」。こうして花火は隅田川に集まり、川開きの夜の名物になっていきます。[3]
なお、隅田川の花火の史料上の初見は寛永5年(1628年)とされます。[4]
玉屋の登場と、両国の競演
文化年間(分家年は1808年説と1810年説があります)、鍵屋の番頭がのれん分けを許され、「玉屋市兵衛」を名乗ります。屋号は狐のもう片方がくわえる「玉」から。[1][2][3]
両国の川開きでは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、観衆は「たーまやー」「かーぎやー」と屋号を叫びました。人気は玉屋が上だったとされ、「橋の上、玉や玉やの声ばかり」という狂歌も残っています。[3][2]
一晩で消えた玉屋
天保14年(1843年)、将軍家慶が日光社参へ出立する前夜、玉屋から火が出ます。失火は重罪、しかも時期が最悪でした。市兵衛は江戸所払い(追放)と闕所(財産没収)の処分を受け、玉屋は一代で断絶します。[2][3]
以後、江戸の花火は再び鍵屋が担い、鍵屋は現在の15代目まで続いています。消えた玉屋は、掛け声の中にだけ生き残りました。[1]
ちなみに、江戸時代の花火は黒色火薬だけのオレンジ色(和火)で、一晩に上がった数は仕掛・打ち上げ合わせて二十発内外とされます。いまのような色とりどりの丸い花火は、明治になって10代目鍵屋が洋薬を取り入れてからです。[4][1]
「花火のはじまり」はどこまで確かなのか
江戸の花火の年表
掛け声だけが残った
宗家花火鍵屋は現在15代目。いまも花火の仕事を続けています。[1]
いっぽう玉屋は、店としては何も残っていません。それでも夏の夜空に「たーまやー」の声が上がるたび、一代で消えた花火師の名前が呼ばれ続けています。[2][3]
むすび
花火の掛け声は、生き残った店と消えた店、二つの名跡の記憶です。一瞬で消えるものに名前を叫ぶ文化は、玉屋の一夜とともに続いています。
出典・参考資料
- [1]宗家花火鍵屋公式・沿革当事者資料 1659年創業の伝承・屋号の由来・玉屋ののれん分け・現在15代 / 閲覧日 2026-08-18 資料を見る
- [2]五條市公式「鍵屋弥兵衛」公的機関 弥兵衛の出身・鍵屋と玉屋の関係・玉屋の断絶 / 閲覧日 2026-08-18 資料を見る
- [3]国立国会図書館 常設展示「花火の情景」解説公的機関 1648年の禁止令と隅田川の例外・両国の鍵屋玉屋・1843年の失火と処分 / 閲覧日 2026-08-18 資料を見る
- [4]日本煙火協会「花火入門」(2026年版)当事者資料 隅田川花火の史料上の初見(1628年)・和火の色と発数・明治の洋薬導入 / 閲覧日 2026-08-18 資料を見る
公開:2026年9月4日
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