とり天のはじまりはいつ?天皇の料理番が生んだと伝わる、大分の県民食
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大分で親しまれるとり天は、別府のレストラン東洋軒が発祥と伝えられています。店を開いた宮本四郎は、天皇の料理番を務めたとも伝わる料理人です。大分県初のレストランだという同店には、どのような一品があったのでしょうか。店の説明をもとに、その由来をたどります。

先に結論
動画版(1分1秒)。映像はAIによる再現イメージです。
湯の町・別府と「天皇の料理番」
大正15年(1926年)、料理人の宮本四郎が、病気の療養で別府を訪れました。帝国ホテルから宮内庁に入り、天皇の料理番を務めたと伝えられる人物です。[1]
宮本を誘ったのは、別府観光の父と呼ばれる油屋熊八でした。宮本は亀の井ホテルの初代料理長となり、のちに大分県で初めてのレストラン・東洋軒を開いたと、同店は伝えています。[1]
「天皇の料理番」という経歴は、東洋軒の説明や旅行記事に伝わっています。この記事でも、店に伝わる経歴として紹介しています。[1]
品書きの「鶏ノカマボコノ天麩羅」
昭和の初め、東洋軒の品書きに「鶏ノカマボコノ天麩羅」という一品が登場します。店の伝えでは、中華料理を和風にアレンジした料理でした。[2][1]
当時使われていたのは、肉の硬い地鶏でした。平らにそぎ切りにし、天ぷらの衣をつけると、唐揚げより早く揚がります。衣はさくさく、肉は柔らかく仕上がるこの鶏の天ぷらが評判になりました。[1][2]
店ごとに広まったとり天
とり天はやがて店ごとのアレンジで広がり、レストランにも定食屋にも弁当屋にも並ぶ、大分の味になりました。[3]
とり天の発祥には、別府の食堂「いこい」を挙げる説などもあります。ここでは東洋軒の説明を中心に紹介していますが、同店を「唯一の発祥」とすることはできません。[3]
大分では、東京とは別に、中華料理店から唐揚げやからあげ専門店が広まった歴史もあります。とり天と唐揚げは、どちらも中華料理の影響を受けた鶏の揚げものとして、大分で親しまれています。[3]
東洋軒に伝わる由来と、ほかの発祥説
とり天の年表
発祥と伝わる店の現在
東洋軒はいまも別府市にあり、「本家とり天」を看板に掲げて営業しています。県内外から客が訪れ、とり天は大分旅行の定番の一皿になりました。[1][2]
大分では、中華料理店から広がった唐揚げと、中華料理をアレンジしたと伝わるとり天の両方が親しまれています。[3]
むすび
とり天の由来をたどると、療養で別府を訪れた料理人と、東洋軒の品書きに行き着きます。発祥には諸説ありますが、店ごとに工夫されたとり天は、唐揚げとともに大分の食卓に定着しています。
出典・参考資料
公開:2026年9月4日
2026年9月7日:導入・見出し・本文の表現を整理しました。出典と、伝承・未確認事項についての注記は残しています。
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